『そばやのかんばん』 解説 この話は、藤樹先生に関する伝え話(口碑伝説)の一つです。 先生は自ら「陰徳」の精神を実践し、村人たちにも夜講釈等で、「人に知られない善行の大切さ」を教えました。 隣村(現高島市鴨)のぞばやから店の看板を頼まれた先生は、快く引き受け、忙しい中でしたが、練習をくり返し真心を込めて書き上げました。そばやは見事な字の看板を見て、喜んで持ち帰りました。ところが、その看板がたまたま通りかかった加賀の殿様の目にとまり、請われるままに簡単に譲り、再び先生に看板を頼みに行きました。 すると、先生は物静かに座敷に案内し、押し入れから半びつ(長櫃の半分の大きさの箱)を取りだし、中を見せました。何と櫃の中には、練習した看板の下書きが、びっしりつまっていたのです。それを見たそばやは、看板一枚のためにかけてもらった先生の時間や苦労、真心の大きさに気づいたのです。再び頼みに行かなければ、知らないままであったことでしょう。そばやは、先生の心のこもった看板を簡単に譲ったことに気づき、心から詫びました。 感性豊かな子どもたちは、どんなことに気づくのでしょうか。 |
大通りに新しいそばやが、できました。若いそばやの主人は、いい場所なので、よくはやるだろうと考えて建てました。ところが、思っていたようには、はやりません。 主人「人の通りが多いのに、うちの店には、お客さんがなかなか来てくれないな。どうしてだろう。そうだ、知り合いのおじさんに、相談してみよう。あのおじさんなら、相談にのってくれるだろう。 |
そばやの主人は、さっそく、知り合いのおじさんの所へ相談に行きました。 主人「おじさん、いい場所に店を建てたのに、あまりはやらないのです。何かよい工夫はないでしょうか。」 おじさん「一度、あんたの店に行ってみることにしましょう。」 おじさんは、そばやの店に来ました。 主人「どうですか。何か気づかれたら、教えてください。」 おじさん「かんばんがなくては、何の店か、分からないから、かんばんをかけなさい。」 主人「なるほど。わかりました。ところで、かんばんを書いてくれる、字が上手で、親切な人を教えてもらえませんか。」 おじさん「そうだね。・・・・それなら小川村の中江藤樹先生という方ですね。親切だし、字もうまいとひょうばんだよ。」 主人「そうですか。ありがとうございます。相談してよかった。」 |
そばやの主人は喜んで、さっそく藤樹先生の家に、かんばんをたのみに行きました。 主人「先生は、おいそがしい方だと聞きましたが、新しくそばやを始めましたので、よくはやるように、かんばんを書いてもらえないでしょうか。」 先生「そうですか。上手には書けないかもしれませんが、よくはやる店になるよう、手伝いができるのなら、引き受けましょう。」 そばやの主人は、安心して、帰りました。 |
先生は、さっそく紙を出して、れんしゅうしてみました。しかし、思うような字は、なかなか書けません。次の日も、その次の日も練習しました。 先生「簡単に書けそうに思ったが、うまくかけないものだなあ。毎日続けることにしよう。」 |
そばやの主人は、たのみに行ってから、数日して、藤樹先生の家に行きました。 主人「先生、かんばんを書いてもらえたでしょうか。」 すると、先生は、こう言いました。 先生「そばやさん、もうしばらくまってもらえませんか。」 主人「はい、わかりました。」 そばやの主人は、『先生は仕事でいそがしいから、、書けないのだ。』と思って、帰りました。 |
それから、十日ほどして、そばやの主人は、また、先生の家に行きました。 主人「先生、かんばんは書いてもらえたでしょうか。」 先生は、にこにこしながら、出てきました。両手で、かんばんをかかえていました。 先生「おまたせしました。この字で気にいってもらえるかな。」 主人「わぁ、みごとな字ですね。さっそく、あしたから、使います。ありがとうございました。」 先生「お客さんが、たくさん来てくれるといいですね。」 そばやの主人は、喜んでかんばんを大切にかかえて、帰りました。 |
次の日、そばやの主人は、朝早く起きて、すぐに、かんばんをかけました。店の前の大通りから、ながめてみました。みごとな字で書かれたかんばんのおかげで、店が引き立ちました。 主人「このかんばんがあると、『そばや』ということが、よくわかるし、また、上手な字だから、目立つぞ。」 知り合いのおじさんが言ったとおり、『そばや』の字が、よく目立つようになったので、店のお客さんがふえました。 |
ある日のことです。りっぱなみなりのおさむらいが、馬に乗って大通りを通りかかりました。加賀のとのさまと、そのけらいです。 殿様「それ、あのかんばんを見よ。みごとな字で書いてあるぞ。あの店で、いっぷくすることにしようではないか。」 けらい「はい、おとのさま。ちょうど昼どきでございますな。」 そばやは、りっぱなみなりのさむらいが、加賀のとのさまだと知り、たいそうおどろきました。そして、かんばんをかけて、ほんとうに良かったと思いました。 |
そばを食べ終えたとのさまは、そばやの主人に、こんなことを言いました。 殿様「おいしいそばであったぞ。ここへ寄ってよかった。」 主人「ありがとうございます。ほめていただいて、うれしいです。」 殿様「ところで、この店のかんばんは、みごとな字で書いてあるな。すまんが、あれをゆずってくれないか。礼は、とらすぞ。」 たのまれた主人は、びっくりしました。そして、ちょっとどうしようかと、まよいました。しかし、『そうだ、もう一度、先生にお願いして、書いてもらえばいいか』と、考えました。 主人「はい、おとのさま。おゆずりしましょう。」 そう答えると、とのさまは、たいそう喜んで、そばやの主人に、たくさんのお金をお礼として、わたしました。 |
そばやの主人は、うきうきして、もう一度かんばんを書いてもらうため、先生の家に行きました。 主人「先生、すみませんが、もう一度かんばんを書いていただけませんか。 先生「何か、ぐあいのわるいことが、あったのですか。」 たずねられた主人は、そのわけをにこにこしながら、話しました。 主人「それで、おとのさまは、たいそう喜んで、私にたくさんのお金をくださいました。」 先生「ほう、それは良かったですね。」 主人「そこで、もう一度、先生にかんばんを書いていただきたいので、お願いにまいりました。」 先生「そうですか・・・・。ちょっと、こちらに来てごらんなさい。おまえさんにみせたいものが、ありますよ。」 そう言って、おしいれの方に案内しました。 |
そばやの主人は、何を見せてくださるのだろうと、ふしぎに思ってついていきました。先生は、おしいれから、はんびつをだしました。 主人「先生、この箱には、何が入っているのですか。」 先生「おまえさんに、見せたいと思うものですよ。」 先生は、はんびつのふたをゆっくりと開けました。 主人は、びっくりしました。中には、そば屋のかんばんを書くために練習した字が、いっぱいつまっていたのです。 主人は、『先生は、こんなにもたくさん練習をして、あんなみごとなかんばんを書いてくださったのか』と、気づきました。 そばやの主人は、先生のまごころのこもったかんばんを、かんたんにゆずってしまったこと、お礼をもらって喜んでいた自分を、はずかしく思い、先生に心からおわびを言いました。 |
おしまい |